今週末見るべき映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」
――今年は、「ライ麦畑でつかまえて」などを書いたジェローム・デイヴィッド・サリンジャーの生誕100周年になる。若きサリンジャーの、インチキな大人たちや、理不尽な社会に向けた鋭い眼差しが、「ライ麦畑でつかまえて」に結実するまでを、緻密な構成で描いた力作だ。
(2019年1月17日「二井サイト」公開)
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝・訳)を読んだのは、遠い昔のことだ。皮肉たっぷりに、インチキな大人たちと、世の中を批判する少年ホールデン・コールフィールドの、純粋なエネルギーに満ちあふれていて、興奮を覚えたものだった。
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」という小説が、どのようにして書かれたのかを、映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」(ファントム・フィルム配給)はたどっていく。
原作は、サリンジャーの死後、出版された「サリンジャー 生涯91年の真実」(ケネス・スラウェンスキー・著、田中啓史・訳 晶文社)で、これまであまり知られていなかったサリンジャーの半生にアプローチしている。
映画には、ひんぱんに「ライ麦畑でつかまえて」の一節が出てくる。そして、この一節が書かれた根拠を、若きサリンジャーの現実を描くことで、ことごとく、実証していく。巧みな叙述と思う。だから、すでに小説を読んだ人なら、かなり面白く見ることができるはずだ。まだ読んでいない人には、映画を見た後、きっと小説を読みたくなるに違いない。
映画は、1939年のニューヨークから始まる。20歳のサリンジャー(ニコラス・ホルト)は、あちこちの大学で、中退を繰り返している。父親ソル(ヴィクター・バーガー)の営む食肉輸入業を継ぐ気はなく、母親ミリアム(ホープ・デイヴィス)の勧めもあって、コロンビア大学の創作文芸コースに進学する。
担当教授のウィット・バーネット(ケヴィン・スペイシー)は、作家志望の学生たちに毒舌を吐く。「生涯をかけて物語を語る意志はあるのか」。自らの内なる声を物語にする重要性を教えるバーネットは、なにかにつけて反抗的なサリンジャーの文才を見抜いている。
サリンジャーは、「若者たち」という短編を書き、あちこちの出版社に持ち込むが、まったく相手にされない。バーネットは、文芸雑誌「ストーリー」の編集長も兼ねていて、ひそかに、サリンジャーの「若者たち」を「ストーリー」に掲載する。サリンジャーのバーネットを見る目が激変する。
サリンジャーは、ひんぱんにマンハッタンの社交界に顔を出す。ある日、著名な劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ(ゾーイ・ドゥイッチ)と出会い、「父上のファンだ」と言って、ウーナに近づくが、当初は、まるで相手にされない。
サリンジャーは、書き続ける。書いた短編は、著作権の代理人ドロシー・オールディング(サラ・ポールソン)を通して出版社に持ち込むが、いっこうに採用されない。サリンジャーは、自身の経験を基に、後に「ライ麦畑でつかまえて」につながる短編「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」を書き、やっと念願の「ニューヨーカー」誌に採用される。ところが、内容の変更条件が付いたのをサリンジャーは拒否する。1941年、太平洋戦争が始まったこともあって、この短編は掲載延期となる。
1942年、サリンジャーは従軍する。バーネットは言う。「生きて、書き続けろ」と。
サリンジャーは、防諜部員として、ヨーロッパのあちこちに赴きながら、執筆を続けている。そのころ、サリンジャーは、ウーナが、かなり年上のチャーリー・チャップリンと結婚したことを知る。
やがてサリンジャーは、ノルマンディー上陸作戦や多くの戦場で、仲間が死んでいく悲惨な現実を見ることになる。心を病んだサリンジャーは、ドイツの精神病院に入ることになる。
なんとか生き延びたサリンジャーは、戦後、やっと作家として開花、「ニューヨーカー」誌と契約を結ぶほどにまで、のし上がっていく。書き続けるサリンジャーだが、戦争のトラウマがのしかかる。長編「ライ麦畑でつかまえて」は、まだまだ、完成しない。
サリンジャーに扮したのは、子役で映画デビューしたニコラス・ホルトで、最近では、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」に出ていた。皮肉たっぷりに持論を展開するバーネット教授役は、ケヴィン・スペイシー。ここでも、貫禄、余裕の演技を披露する。
脚本、製作、監督は、「大統領の執事の涙」の脚本を書いたダニー・ストロング。これが映画の初監督作になるが、自らが映画化権を取得しただけあって、細部まで揺るがせにしない、力のこもった演出だ。
サリンジャーが、晩年、なぜ「世捨て人」になったのかは、戦争のトラウマによるところが大きかったのではないか。「嘘のない物語」を書きたかったにちがいないサリンジャーにとって、お金や名声は無意味だろう。ただ、嘘のない物語を書き続けることだけが、サリンジャーの願いであって、だから、「嘘だらけの世の中」を捨てたのだろう。
白水社Uブックス版の「ライ麦畑でつかまえて」の解説のなかで、訳者の野崎孝はこう書いている。「子供の夢と大人の現実との衝突ともいえるだろう。いつの世にも、どこの世界にもある不可避的現象だ。純潔を愛する子供の感覚と、社会生活を営むために案出された大人の工夫との対立。子供にとって、夢を阻み、これを圧殺する力が強ければ強いほど、それを粉砕しようとする反撥力は激化してゆくだろう」
「ライ麦畑でつかまえて」のなかにこうある。
「未熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」
サリンジャーは、終生、読者に問いかけ続けたのではないか。「では、人はどう生きるのか」と。
主人公のホールデン・コールフィールドは16歳である。いまなお、若者たちが、「ライ麦畑でつかまえて」を読み継いでいく世界であって欲しいのだが。
☆ 2019年1月18日(金)~ TOHOシネマズシャンテ、新宿シネマカリテほか全国ロードショー