今週末見るべき映画「天国でまた会おう」
――ピエール・ルメートルの同名小説を、ルメートル自身が脚本に参加しての映画化だ。原作は、愚かな戦争への批判と風刺、皮肉に満ちた、とびきりの爽快さ。結末こそ違えども、映画もまた、抜群の面白さ。小説、映画とも、読むべき、見るべき!とお勧めしたい。
(2019年2月26日「二井サイト」公開)
ピエール・ルメートルの小説「天国でまた会おう」(早川書房・平岡敦 訳)の冒頭にこうある。
「あの空で待ち合わせだ。神がぼくらを結びつけてくれる。妻よ、天国でまた会おう……。
ジャン・ブランシャールが最後に記した言葉 1914年12月4日」
ブランシャールは、実在したフランスの兵士で、ドイツとフランスが戦っている第一次世界大戦のさなかの1914年12月、上官の退却命令が出ているのに、敵前逃亡の容疑で銃殺される。その際、ブランシャールが妻に残した言葉が冒頭の引用だ。
文庫で上下2巻の長編を、俳優でもあるアルベール・デュポンテルが、ルメートルとともに脚本を書き、監督、主演を務めたのが、「天国でまた会おう」(キノフィルムズ、木下グループ配給)だ。
映画の冒頭は、1920年のモロッコ。フランス軍の兵士で、ドイツと戦ったアルベール・マイヤール(アルベール・デュポンテル)が、モロッコ駐在のフランス憲兵から尋問され、聴取を受けている。アルベールは語り始める。
1918年11月、第一次世界大戦の終結が間近の頃。ドイツと戦っていたフランスの中年の兵士アルベールは、姑息で狡猾、戦争好きの上官ブラデル中尉(ロラン・ラフィット)の、戦場での理不尽な指揮に気付く。
味方の兵士を射殺するなど平気のブラデルは、アルベールに悪事を目撃され、アルベールを塹壕の穴に突き落とし、生き埋めにしようとする。
あわやのところで、アルベールを救ったのが、若い兵士のエドゥアール・ペリクール(ナウエル・ペレーズ・ビスカ)だ。エドゥアールは、生き埋め寸前のアルベールを救出するが、その時、敵の爆撃にあい、鼻から下の顔半分を失ってしまう。
なんとか生き延びたふたりは、パリの病院にいる。画家を目指しているエドゥアールは、大企業を牛耳る父マルセル(ニエル・アレストリュプ)に真っ向から反対されていて、このような体では、実家に戻る気はしない。アルベールは、エドゥアールが戦死したことにして、実家に手紙を送る。エドゥアールには、心優しい姉マドレーヌ(エミリー・ドゥケンヌ)がいるが、いまや、エドゥアールは、マドレーヌにも会いたいとは思わない。
1919年のパリ。エドゥアールとアルベールは、粗末な部屋で暮らしている。アルベールは、デパートのエレベーター係として働き、いわば命の恩人のエドゥアールの世話をしている。エドゥアールは、画才を生かして、鼻から下を隠す、色とりどりのマスクを作る。孤児の少女ルイーズ(エロイーズ・バルステール)が、話せないエドゥアールの通訳となり、エドゥアールの考えたある計画を、アルベールに伝える。
この計画は、フランスはもちろん、戦後、あくどい仕事で財をなしたプラデルや、帰還兵に冷たいフランス社会を相手に、エドゥアールの画才を生かした壮大な詐欺である。失うものは、なにもない。あとは、実行するのみ。
反戦メッセージはもちろん、家族の葛藤や愛憎、友情のありようなど、ルメートルのメッセージが、しっかり伝わってくる。
これがフランス映画だろう。コクがあり、悲哀や切なさがあり、十分にユーモラス。なによりも細部が、小粋である。
エドゥアールの父親マルセル役を、ニエル・アレストリュプが演じて、後半のシーンを引き締める。「預言者」や「フェアウェル さらば、哀しみのスパイ」「戦火の馬」などで示した貫禄は、ダテではない。
結末は、原作と映画では、大いに異なる。小説は、後半の畳みかけるような展開に、引き込まれる。映画は、さらにスピーディで、これまた、引き込まれる。原作者のピエール・ルメートルが、映画化でも、重要な役割を果たしている。異存など、まったく、ない。
原作を読んでから映画を見る。映画を見てから原作を読む。どちらでも、それぞれの面白さを損なうことはない。映画のラストは、やや切ないけれど、原作の痛快さ、爽快さを損なうことはない。
☆ 2019年3月1日(金)~ TOHOシネマズ シャンテほか、全国ロードショー