今週末見るべき映画「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」
――フランスの世界的ベストセラー「デュダリス」三部作の完結篇「死にたくなかった男」の刊行が決まる。9つの言語の翻訳家9名が、パリ郊外のシェルターのような豪邸に集められ、外界と遮断した状況で、翻訳作業が始まる。完璧なセキュリティのなか、なんと翻訳の一部が、ネット上に流出し、出版社の社長宛てに、500万ユーロもの脅迫メールが届く。犯人は? その目的は?
(2020年1月21日「二井サイト」公開)
もう、息つくひまもない。ラストまで、ほんとうのことが、ころころと変化していく。「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」(ギャガ配給)は、フランス、ベルギー合作の傑作ミステリーだ。
ドイツのフランクフルトのブックフェア会場で、出版社社長のアングストローム(ランベール・ウィルソン)が発表を始める。本名やプロフィールが非公開のフランスの作家、オスカル・ブラックの書いた世界的なベストセラー『デュダリス』3部作の完結篇の翻訳、出版の権利を取得した、と。
なにしろ、第1巻『レベッカの傷痕』、第2巻『毒の口づけ』で10億ドルものセールスという。世界9カ国で同時発売ともなると、アングストロームは膨大な金額を手にすることになる。
9人の翻訳家たちが、パリにやってくる。小説家志望のデンマークのエレーヌ(シセ・バベット・クヌッセン)、首にピストルの刺青を入れているのはポルトガルのテルマ(マリア・レイチ)、オスカル・ブラックと接触するのが夢のダリオ(リッカルド・スカマルチョ)はイタリア。
25歳の若さで英語翻訳を射止めたアレックス(アレックス・ロウザー)、中国出身だがパリに長く住むチェン(フレデリック・チョー)は中国語、「デダリュス」のヒロインのレベッカの衣装でやってきたのはロシアのカテリーナ(オルガ・キュリレンコ)、ギリシャの大学で教えているが翻訳もしているコンスタンティノス(マノリス・マヴロマタキス)、ヒッピーふうで傍若無人なドイツのイングリット(アンナ・マリア・シュトルム)、スペインのハビエル(エドゥアルド・ノリエガ)は発達障害気味。残念ながら、日本の翻訳家はいない。
9人の翻訳家が案内されたのは、パリ郊外のヴィレット邸だ。『デダリュス』の大ファンというロシア富豪の持ち家らしい。
豪邸の地下での、缶詰状態の翻訳である。全員、通信機器は没収され、外界との連絡は一切、できない。もちろん、ネットへの接触もできない。しかも、ガードマンふうの屈強なロシア人が数名、監視を続けている。食事の時間はきっちり決まっていて、いずれも豪華だ。仕事時間は、9時から20時。休みは日曜のみ。
拘束は2カ月。全員、一日、20ページを翻訳する。第3巻『死にたくなかった男』は全480ページ。20ページの翻訳が終わると、また20ページが配布される。ざっと、1カ月で翻訳を終え、あとの1カ月で推敲することになる。
閉じこめられているとはいえ、各国の新聞は毎日届き、図書館の蔵書も充実している。プールがあり、ボーリングもでき、映画は見放題だ。それぞれの思惑のなか、翻訳作業が始まる。
クリスマスには、みんなでボーリングに興じ、パーティを開く。アングストロームの助手の女性ローズマリー(サラ・ジロドー)も加わり、みんなで、バート・バカラックの名曲「世界は愛を求めている」を唄ったりする。
みんなのパーティが終わった夜中、アングストロームのスマホにメールが届く。第3巻の冒頭、10ページをネットに流出した、と。流出を止めるには、24時間以内に500万ユーロ必要で、払えないと、次の100ページを流出させる、とも。
しかも、メールには、みんなで唄ったばかりの「世界は愛を求めている」の歌詞まで、引用されている。
原稿を手にしているのは、作者のオスカル・ブラックとアングストロームだけである。犯人は、翻訳家のなかにいるはずと推理したアングストロームは、翻訳作業を中止させ、犯人探しに乗り出していく。
ここまでが、事件のほんの入り口である。すでに、映像では、いくつかの真相が示されるが、それがことごとく、また別の真相となり、さらにまた……。犯人は? その手口は? その目的は? 作家オスカル・ブラックの正体とは?
観客が翻弄されるのを楽しむかのような作り手たちである。脚本のモデルになった話がある。『ダ・ヴィンチ・コード』で有名なダン・ブラウンの『インフェルノ』が発売されるとき、世界各国に同時発売ができるよう、また海賊版が出ないよう、いろんな国の翻訳家10数名を、秘密の地下室に隔離して翻訳させたらしい。
この話にヒントを得て、監督のレジス・ロワンサルが、ダニエル・プレスリー、ロマン・コンパンと共同で脚本を書き上げた。いずれも小粋なフランス映画「タイピスト」のスタッフたちだ。
いくぶんの過不足があるが、9名の翻訳家がどのような人物かの描写が簡潔で巧み。さらに、社長のアングストローム、助手のローズマリー、社長の友人で書店を営むジョルジュ(パトリック・ボーショー)の人物描写も見事である。ともあれ、観客に展開を読ませないこれだけのドラマを、わずか1時間45分に閉じこめた力量には、ただただ脱帽だ。
劇中、『デダリュス』の第1巻、第2巻のフレーズが多く引用され、展開の潤滑油となる。また、ジョイスの『ユリシーズ』や、「赤面する者は罪人、潔白なら何も恥じない」とのルソーの言葉、プルーストの『失われた時を求めて』、アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』にちなんだシーンがあり、作り手の敬意を思わせる。
見終わって想う。出版の目的は、お金ではなく、優れた作品を多くの人に届け、残すことだろう、と。映画は、ミステリーの装いを取りながら、出版の本来の意味をズバリ、言い当てている。
(2019) TRESOR FILMS - FRANCE 2 CINEMA - MARS FILMS- WILD BUNCH - LES PRODUCTIONS DU TRESOR - ARTEMIS PRODUCTIONS
☆ 2020年1月24日(金)~ ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷シネクイント、新宿ピカデリーほか全国順次公開